2018年10月に中庭を改修いたしました。
希望を持って比叡山に向かう
若き法然上人(幼名:勢至丸)の姿をあらわす像と、
庭は勢至丸様の出生時と、岡山から京都比叡山へ
旅立つ時を描いています。
長承2年(1133)4月7日。
法然上人は、美作国久米郡稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)で生まれました。
幼名は勢至丸といい、父は漆間時国・母は秦氏の出自の女性です。
武士の子息としてすくすくと育つ勢至丸に、突然の悲劇が訪れます。
勢至丸が9歳の時、父時国は明石定明の夜襲にあうのです。
時国は最後を悟り、勢至丸に敵討ちをせず出家することを遺言し亡くなります。
父の死後、勢至丸は、母の弟である那岐山菩提寺の観覚得業に預けられます。
勢至丸の非凡さに驚いた観覚は、比叡山延暦寺に行くことを勧めます。
別れを悲しんだ母は、息子の比叡山行きを強く反対します。
しかし、父の遺言を忘れられない勢至丸は懸命に母を説得し、やむなく母は比叡山行きを許します。
つらい別れを経験しつつあこがれの比叡山へ向かう勢至丸。
本像は、希望を持って比叡山に向かう若き法然上人の姿をあらわしています。
中庭の平面図
中庭のイメージイラスト(ラフ)
左手前に勢至丸様の「誕生石」として、一石を投じています。
出生の時、邸宅に二またの椋の木があり、その木ずえに白い二幡が流れかかり美しい鈴の音が天に響いたと言われ、七日を経て流れ去ったと語られています。
その白い二幡を、斜めにかかる白川砂利で描いています。
【父・時国公】…出家の人生指針を与えた。
【叔父・観覚得業】…勢至丸様の才覚が凡人ではないことを知り、京都比叡山行きを勧める。この時、十五歳(十三歳説もある)。
【母・秦氏君】…母・秦氏にとって、夫・時国を失い、たった一人子である勢至丸様を遠く都の彼方にやることは、耐え難い悲しみであったが、この地に留めることは、夫・時国の遺志に背くことにもなり、悲しみの中、わが子の比叡山行きを承知した。
上記の御三方が勢至丸様に与えた影響は多大であり、「三尊石」とし表しています。